2 「サヴァイヴ」という言葉
さて、本題に入る前に、ぼくがここまで言ってきた「サヴァイヴ/生き残り」という言葉について簡単に三つほど、おさえておきたい。
まずひとつ目。「サヴァイヴ」とは、ある人が社会の中で生きようとするとき、何らかの能力や努力といったものが過度な形で要求され、また他の人たちとイスをめぐって争わなければならない、そういう考え方、もしくは状況のことである。
その上で、二つ目は、「サヴァイヴ」は、必ずしも新しい言葉ではないということ。
この言葉は、少なくとも10年以上前から色々なフィクションのテーマとして扱われてきたし、批評やルポルタージュなどの文章でも語られてきた。また、「サヴァイヴ」の背景に存在する時代の「切迫」の感覚は、いま30歳のぼくより一回り上の世代、「ロストジェネレーション」と呼ばれる人たちの頃からすでに、就職氷河期、派遣労働、違法労働などのトピックを通して広まってきたものだと思う。
だからぼくは、「サヴァイヴ」を新しい言葉、状況と言いたいわけではなく、90年代のはじめに日本のバブルが終わり、それ以降20年、30年かけて広がってきた状況に根差した言葉として受け取り、その上で、最近また一段とこの言葉を聞くようになったことに注目している。
三つ目は、「サヴァイヴ」は、ぼくが捉えた意味合いではなく、社会の歪みや問題にさらされた個人が自分の「生存権」を主張するといった文脈でも使われていることに注意しておきたい。
例えば、作家の雨宮処凛は『生きさせろ! 難民化する若者たち』(2010年、ちくま文庫、初刊は2007年)という本で、2000年以降のフリーターや派遣労働者の若者たちを取材し、その過酷な労働状況や企業による若者の使い捨てを取り上げ、「生きることそのもの」が「脅かされている」状況を問題提起した。雨宮は、資本主義が「人を人として扱わなくなった」ことを批判した上で、次のように宣言している。「闘いのテーマは、ただたんに『生存』である。生きさせろ、ということである。生きていけるだけの金をよこせ。メシを食わせろ。人を馬鹿にした働かせ方をするな。俺は、私は人間だ」。
ここでの「生存」「生きさせろ」という言葉は、ぼくが先に書いた、他人を蹴落として生きるという競争主義的な意味での「サヴァイヴ」とは違い、そのような過酷な状況におかれること自体がおかしいんじゃないか、普通に生きさせろ、という意味合いのものであり、競争的なあり方そのものへの反撃、「生存権」の主張をあらわすものになっている。ぼくは、この雨宮の言葉には、きわめてまっとうなものがあると思う。
また、これは昨年9月のことだが、SEALDsのメンバーだった奥田愛基らが主催する音楽イベント「THE M/ALL2019」があり、このイベントのテーマも「SURVIVE=『生きぬく』」というものだった。ステートメントでは、子どもの貧困、労働問題、原発、差別など、いまの日本の諸問題にふれ、「こんな状況だからこそ、あえて。私たちは、音と、言葉と、ありとあらゆる手段を使って『生きぬく』と呼びかける」と書かれていた。
この場合の「サヴァイヴ」も、雨宮と同じく、競争的な状況や社会の歪みにさらされる人たちの「生存権」の主張、という側面があると思う。ぼくは、こうした主張には共感していることを明記したい。しかし、最初に述べた、人が多くを要求され、他人を蹴落として生きろという意味合いの「サヴァイヴ」については「それは違うよ」という感覚を強く持っており、この文章で問題にしたいのは、ひとつ目と二つ目でふれた、競争主義的な意味での「サヴァイヴ」だということをおさえてもらいたい。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。