4 死んでいく生徒たちの表情、言葉への目線
死んでいく生徒たちの姿を追う、という演出はどんなものか。
『バトル』を久しぶりに見てみたところ、藤原竜也や山本太郎をはじめとした当時の若い俳優たちがとにかく身体全体を使って動き回り、銃や爆薬を使ったアクションに挑んでいること、次から次へ新たな生徒同士の戦闘が重なり、異様な迫力が生まれていることに大きな印象を受けた。しかしその一方で、そうやって次々に出てきては死んでいく生徒たちの表情やふとした瞬間の言葉といった要素をしっかり丁寧に描いている側面があり、激しい戦闘場面と生徒たちの姿を丹念に描写する、そのギャップにより興味をひかれた。
例えば、この映画の殺人ゲーム「バトル・ロワイアル」では、42人いる生徒のうち、最後のひとりしか生き残れないルールになっていて、ほとんどの生徒はあっという間に死んでいく。にもかかわらず、冒頭の場面からそれぞれの生徒をはっきり描き分ける工夫がなされている。それは、主人公たちが島の廃校で目を覚まし、教師キタノと軍人たちから武器と食料が入ったカバンを受け取り、ひとりひとり島の各地へ散らばっていく場面で、ここでは、全員ではないが、何人もの生徒たちのそれぞれに違った態度、顔に浮かんだ表情が描き分けられている。おびえきった男子生徒、親しい友人と別れを惜しむ女子生徒、抗議の意志を示してカバンをキタノに投げ返す生徒など…。
言葉に関して言えば、『バトル』では、脚本を書いた深作健太のアイデアで、登場人物たちのいくつかのセリフが画面に字幕となってあらわれる手法が採られている。例えば、劇中後半で主人公秋也が負傷して意識を失っていたところ、他の生徒の助けで島にある灯台に担ぎ込まれ、そこで女子生徒内海幸枝(石川絵里)から手当てを受ける場面がある。この内海は秋也に好意を持っており、遠回しに自分の気持ちをかれに伝え、「…ねえ、この意味わかる?」と聞く。このセリフが、その少し後の場面で字幕となって再びあらわれるのである。こうした字幕であらわされる言葉は、それだけでは一見なんてことのないものだったり、少しクサいセリフであったりするのだけど、字幕化され強調されると、死んでいった同級生たちが残した言葉として重みを帯びる。
このように、『バトル』では、殺し合いの激烈さが描かれると同時に、ひとりひとりの生徒の表情や言葉をわりと丁寧にすくい取っている面がある。
映画評論家の山根貞男が深作欣二に聞いたインタビュー(深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』2003年、ワイズ出版)によると、山根が『バトル』のシナリオでは主人公たちだけでなく42人の生徒全員が粒立って描かれていることに感心したと言うと、深作は、自分は42人もいらないだろうと思ったが、脚本を書いた深作健太に42人は絶対に必要と言われ、自分も後からその通りだと気がついた、と話している。ぼくは、この『バトル』は深作欣二その人の個性、能力だけで出来上がっているとはもちろん思っていないし、とくにこの作品はかなりの部分で息子の深作健太の作家性があらわれた作品にもなっていると思う。とはいえ、死んでいく生徒たちの表情や言葉を描く側面は、深作健太のアイデアや着想が基底にありつつも、それまでの深作欣二の映画の撮り方と非常にマッチする部分があったんじゃないかと思う。というのは、深作の映画には元々「死んでいく人を丹念に描く」という側面が見られるからだ。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。