5 限定された生を描く
元々深作欣二の映画には、登場人物の言葉や表情を追うということとは別に、ある人物が死ぬまでの数秒間、数分間を丹念に描くという側面があり、それが『バトル』では、中学生たちの言葉や表情を追う演出とあいまって、この映画の独特な空気感を作り上げていると思えた。
死ぬまでの数秒間、数分間を描くとは、どういうことかというと、ある人物が殺し合いの中で刺されたり、銃で撃たれたりしても、息絶えるまでになぜかやたらと時間がかかり、もがいたり暴れたりする様子がカメラにしっかり映されるということだ。
例えば、『バトル』では、柴咲コウが演じる相馬光子という女子生徒が死ぬ場面で、光子が、潜んでいた別の生徒から襲撃され、マシンガンと拳銃で撃たれるのだが、光子は撃たれては起き上がり、撃たれては起き上がりという動作を3度くらい繰り返してようやく絶命する。
『仁義なき戦い』などの往年の深作のアクション映画でも、ヤクザのキャラクターたちは銃や刀をまるでこぶしで相手と殴り合うときのように、近距離で狙いもろくにつけず、何度も撃ちまくったり、切りつけたりする。それでいて、撃たれ、切られた方もすぐには死なないのである。路上や畳の上で苦しそうに死ぬまでのわずかな過程がカメラに映される。
ぼくは、こうした「死んでいく人を丹念に描く」ことは、ある人物の死が確定した後の「残りの生」を描くという深作独特の描写と捉えてみると、それはそれで面白い気がする。
これをかりに「限定された生」を描く手法と名付けてみよう。
『バトル』に見られる、死んでいく中学生たちの表情や言葉を追う演出は、致命傷を負い、あと数分、数秒で死んでしまう人物のもがき、「限定された生」を描くというあり方と同じ部分がある気がする。時間の差はあれど、どちらももうすぐ死が訪れる人物に残された、わずかな生を描く演出だからだ。
このあたりから、ぼくには、『バトル』で描かれる「サヴァイヴ」が、よく見聞きするいまの「サヴァイヴ」的な考え方とは、何か大きく違うものがある、という感触が得られた。いまの「サヴァイヴ」の考え方は、自分だけは生き残れ、と人に呼びかけるものであり、言ってみれば「前」へ、「未来」へ目を向けた思考だと思うけれど、一方深作の『バトル』では、死んだ人たちの方を振り返れ、と「過去」を向いていて、これがぼくがこの映画には「後ろ向き」なものがあると感じる理由なのである。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。