3 『バトル・ロワイアル』はどんな映画か
ぼくが久しぶりに『バトル・ロワイアル』(以下『バトル』)を見直して面白いと思ったのは、中学生たちの孤島での殺し合いを、競争主義的な「サヴァイヴ」思考のように、さあ、これからは厳しい世の中だ、力をつけて生き残れ、という風には描かず、それよりも死んでいくひとりひとりの中学生の姿を映像的に追うことに力を入れていて、どこか「後ろ向き」に「サヴァイヴ」を捉える姿勢があると感じられたことだった。
それは、例えば劇中で山本太郎が演じている、主人公二人を助ける川田章吾というキャラクターの描き方や、殺し合いゲームに参加する42人の生徒ひとりひとりの撮り方などからそう思えた。詳しくはこの後書いていく。
いったんここで、『バトル』について概略しよう。
『バトル』は、高見広春による同名の若者向け小説『バトル・ロワイアル』(2002年、幻冬舎文庫、初刊は1999年)を原作とし、新世紀初頭にある国(日本)で大人たちが中学生に殺し合いをさせる殺人ゲームを合法化し、孤島に連れていかれた中学生42人が殺し合うアクション映画だ。
高見の原作は、もともと日本ホラー小説大賞の最終選考に残り、中学生が殺し合いをする内容であることから審査員たちの反発を受け、落選した経緯を持つ。しかし、それが太田出版から書籍化されるとベストセラーとなり、たまたま息子の深作健太(映画監督・脚本家)から本を見せられた父欣二が、本の帯にあった「中学三年生四十二人皆殺し」という文章に触発され、映画化を決心したという。
映画は、脚本を深作健太が書き、設定上原作との違いがいくつかあるが、大筋において物語は同じで、登場人物もほぼ一致している。2003年に続編として『バトル・ロワイアルⅡ 【鎮魂歌(レクイエム)】』が公開されたが、撮影のクランクイン直後に深作が亡くなり、大部分を深作健太が監督を引き継ぎ完成させた。この2作目については、今回の文章ではふれない。
映画のあらすじは次のようなものだ。
新世紀のはじめ、ある国(日本)が崩壊する。失業、不登校、校内暴力…自信をなくした大人たちは子どもをおそれ、BR法という法律をつくり、子どもたちをお互いに殺し合わせる殺人ゲーム「バトル・ロワイアル」に参加させるようになる。
城岩学園中学校3年B組の生徒たちは、修学旅行のバスに乗っている最中に意識を失い、ある島の廃校の中で目を覚ます。突然校庭にヘリコプターが着陸し、生徒たちの前にかつての担任教師キタノ(ビートたけし)が大勢の軍人を連れてあらわれる。キタノは子どもたちに「今日はみなさんにちょっと殺し合いをしてもらいます」と告げ、全員が「バトル・ロワイアル」に強制的に参加させられたことを伝える。生徒たちは、最初反発を示すも、ひとりひとり武器と食料が入ったカバンを渡され、島のあちこちへ散らばっていく。ここから殺し合いが始まる。
主人公七原秋也(藤原竜也)と中川典子(前田亜季)は行動をともにし、林の中で数年前の「バトル・ロワイアル」を生き残った優勝者であり、今回再び強制的に参加させられた青年川田章吾(山本太郎)と出会う。秋也と典子、川田は、他の生徒たちと戦いながら、島からの脱出を目指す。
以前からぼくには、なぜ戦前生まれで『仁義なき戦い』などで戦後のヤクザの暴力を描いた深作欣二が「少年犯罪」や「校内暴力」など下の世代のテーマを持つ『バトル』を監督したのだろう、という疑問が頭の中にあった。そこで今回『バトル』を見直したところ、何かいまでもクリティカルなところがあるな、と感じられ、続けて『仁義なき戦い』や、70年代に撮られた『県警対組織暴力』(1975)といった作品を見てみると、どれもいまの時代に見直すとしっくりくるものがある。
若者たちが閉塞した状況で殺し合い、バタバタ無惨に死んでいく、という構図が『バトル』にも、他の深作作品にも共通していたことにいまさらながら気づかされ、深作は「サヴァイヴ」のテーマを追ってきた人だと捉えてもいいんじゃないか、と思えるようになった。
深作の「サヴァイヴ」のテーマとは、一言でいえば、追い込まれた若者たちの殺し合い、であるが、さらにその若者たちを利用し犬死にさせる「大人たち」の存在、また、時代や社会の流れに見捨てられた人々がこのような状況に追い込まれる、という要素も加わってくる。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。