はしっこ世界論 “祖父の書庫”探検記 第3回

祖父いいだももと、その書庫に残るもの

飯田朔

 

1 まくら本を書いた祖父

 

 いいだもも、と言われても、多分いま40代より下の年齢の人たちは誰か分からないんじゃないかと思う。一方で上の世代の人たちには、名前くらいは覚えている、という人はわりといる気がする。

 とはいえ、ももの名前を知る人にも、知らない人にも、これは話してみたい、と思うことがひとつある。それは、ももがぼくのこれまでの人生でまれに見る「変わった」人であったということだ。

 ぼくは1989年生まれで、祖父が63歳のときに生まれた最初の孫だ。自分の幼少期のももの印象として記憶に残っていることが二つある。ひとつは、祖父が祖父母の家の居間の食卓に原稿用紙と参考文献らしき本を広げて、ひたすら文章を書いていたこと。もうひとつは、そうやって書いた文章が本としてまとまり、世に出されるとき、それが辞書よりも分厚く、重い、異様な見た目の本になるということだった。

祖母の家に泊まり込んで、書庫を掃除したり整理したりする。

 ひとつ目の印象について言うと、祖父は、ぼくらが祖父母の家へ遊びに行っても、大体いつも居間の食卓で自分の文章を書いていた(居間には祖父の仕事机があったのに、なぜかそれとは別の食事用のテーブルでものを書くことが多かった)。大きなテーブルの半分ほどは、祖父の原稿や文具、本で占領されており、食事の時間になっても祖父はそれらを片付けない。夕食などでテーブルに料理や食器が運ばれ、家族の他のメンバーがみなイスに座っても、祖父はまったく周りの様子を気にもとめず、文章を書き続けるのだ。そんなとき祖母がいい加減にしてくれ、という様子で「ももさん……!」と言ったりすると、祖父は「いいのっ!」とのどの奥の方から出すような独特なうなり声で拒絶する。しょうがないから、家族の他のメンバーは食べ始め、しばらくするとようやく祖父もペンを置き、食べ始めるということがよくあった。

 これは、ものを書くことに真剣な人なんだろう、と受け取る人がいるかもしれないし、また、昭和的な家族における父親の立場の強さが現れた場面だと捉える人もいるかもしれない。しかし、ぼくが子ども時代に耳で聞いた祖父のあの独特な拒絶のうなり声には、それだけでは何か説明のつかない要素が含まれていたと思える。というのも、祖父にはこの他にも主に対人面で色々な変わったところがあったからだ。例えば、祖父は来客中に突然ことわりもなく居間のソファーで昼寝を始めたり、普通の人は言わない、失礼な皮肉や冗談を言っては話し相手を怒らせてしまうなど、何か根本的なところで他人のペースや意図を推し量ったりすることができないタイプの人だった。こうした祖父の姿は、ぼくには、まるで家族の中に孫をさしおいて、もうひとり大きな体の赤ん坊がいて、周囲の様子などまったく顧みず、ひたすら文章を書き続けている、というような異様な姿に映ったのである。

 祖父の二つ目のイメージとして頭に残っているのは、祖父が晩年に出していた分厚い著作の数々だ。祖父は90年代後半から晩年の2008年頃まで、自身の執筆活動の集大成と言える大著を次々に刊行した。研究者や物書きが晩年にかけてそのような本を出すことは珍しくないと思うが、祖父の場合異様だったのは、その頁数があまりにも長いことと、読む人がそれほどいないし売れないだろうに、それにまったく構わないかのように書き続けていたことだ。例えばももが2005年に出した『〈主体〉の世界遍歴(ユリシーズ)──八千年の人類文明はどこへ行くか』(藤原書店)という3冊本は総頁数2600頁を超え、内容としても「人類文明史8千年を俯瞰する」という過剰に大きなスケールを持っていた。ももが当時出していた本は、内容の点からもこれを読みこなせる人がいるのか、と思わせるものが目につく。

 ぼくの家族は皆本を読む方だが、にもかかわらず誰一人として祖父のこれらの本を読む者はおらず、祖父自身、自分が書いた分厚い本を「まくら本」などと呼んでいた。ぼくの中では、これらの本は、本なのに「読めない」し、デカいし、それでいて家の中ではよく床などに転がっていて、ある種の存在感をかもしだしている、なんとも奇妙な物体だった。

 こうした幼少期の自分の目に映った祖父のイメージを振り返ると、ぼくにとっての祖父は、ひとりの物書きとしてではなく、また、政治運動に携わった人物としてでもなく、一個人として何か普通の人とは大きく違った性質を持つ人物だった、という印象が強くなるのである。

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 「無職」の窓から世界を見る 第3回【後編】
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30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。

プロフィール

飯田朔
塾講師、文筆家。1989年生まれ、東京出身。2012年、早稲田大学文化構想学部の表象・メディア論系を卒業。在学中に一時大学を登校拒否し、フリーペーパー「吉祥寺ダラダラ日記」を制作、中央線沿線のお店で配布。また他学部の文芸評論家の加藤典洋氏のゼミを聴講、批評の勉強をする。同年、映画美学校の「批評家養成ギブス」(第一期)を修了。2017年まで小さな学習塾で講師を続け、2018年から1年間、スペインのサラマンカの語学学校でスペイン語を勉強してきた。
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