はしっこ世界論 “祖父の書庫”探検記 第3回

祖父いいだももと、その書庫に残るもの

飯田朔

 

5 書庫に残る「住人」たち

 

 何か祖父のことを、と思ってこの文章を書く準備をし始めたとき、まず頭に浮かんだのは、祖父が「変わった」一面を持っていたことであった。とはいえ、書きながら自分の中ではっきりしてきたのは、ぼくはそれを人にただ面白おかしい思い出話として語りたいわけではないということだ。そうではなく、いまの社会の状況の中で、祖父のような変わった個人を振り返ることに意味があるんじゃないか、と思えてきたのだ。

 ぼくには、いまの日本の社会は多様性が問い直されたりする一方で、社会のある側面は妙に「のっぺり」としてきているように見える。社会全体に個人個人が持つその人なりの性質や「変な部分」への耐性がなくなってきている気がするのだ。これはまだ手探りだが、日本の労働環境やジェントリフィケーションと呼ばれる現象、排除アートの問題、またひきこもりや発達障害の人たちが置かれた状況などを見る中でそう思えた。また、いまは、個人の生き方としても、自分はこんな性質の人間で、だから○○はしたいが、××はしたくない、と自分を軸にして物事を考えるのではなく、他人が作った枠組みに自分自身をいかに適応させるかを優先し、自分の主張を表に出さないという悪い意味での他人本位の風潮が広がっているのではないか。

 さらに、例えば「日本」という枠組み、歴史についても、祖父の本などを読むと、侍以外の様々な身分の人たちに向けた視点があり、農民以外に漁民や山民、半農半漁といったそれぞれの暮らしの形態があったことや、地域ごとの差異といったものへの分析があるが、いまの若い人たちは、よほど知識がある人でも、「日本」を「侍」や「四季」、「米が主食」など、非常に単純化したイメージで捉えていることが多い気がする。

 つまり、個人についても、社会や国家についても、本来その内側に存在しているはずの「複雑さ」のような要素を「ない」ものとしてしまう風潮が感じられるのである。

 そんな時代の中で祖父のことを思い返すと、ももは、個人が持つ独特な性質を何倍にも濃縮し、全身で体現しているような人だったなあ、とその輪郭がやけにはっきりと見えてくる面があった。こういう人を振り返ることは、いまは「ない」ものとされがちな、個人や社会の隠れた一面に再び光を当てるきっかけになるんじゃないか。

子どもの頃に、ももという名の祖父がくれた、ミヒャエル・エンデの『モモ』(大島かおり訳、2001年、岩波書店)。

 祖父の本を何冊か読んだあと、書庫へもう一度行き、その本棚を眺めてみた。

 書庫には単に学術系のマジメな本が置かれているのではなく、各所で少数民族や芸能史、民俗学などに関連した本が見られ、「わらわら」とした要素がひしめいている場所のように思えた。ももの書庫は、いわゆる「作家の書庫」的な文学的な価値を持つ空間とは違った側面がある。また、何らかの分野に特化した学者の蔵書群というわけでもない。ではどんな場所なのかというと、書庫は、何より一人の「変わり者」が読み漁り、置き去りにしていった本たちが散らばる場所なのであり、そのことに意味があると感じた。そうした場所だからこそ各所に、上の世代の一部の人たちに共有されてきた、色々なカウンター的な要素を見つけることができる。

 例えば、この連載の第1回で取り上げた、島尾敏雄の「ヤポネシア」という言葉であったり、また今回の文章でも少しふれた、日本の主食=米と捉える発想に対する、イモを主食とした地域に関する議論(坪井洋文『イモと日本人』など)など。いずれも物事を単一化、単純化して捉えようとする動きに対して、「そうじゃない部分」があることを示すアイデアだ。

 ぼくはこれまで、この連載で主に若い人に向け、上の世代には読まれてきた中身のある(しかし忘れられかけている)本を紹介しようと思ってきたが、今回祖父について書いてみて、ぼくがこの書庫に興味をひかれ、探そうとしていた本とは、こうした「わらわら」とした要素を持つ本だった、ということに気がついた。

 いまの「のっぺり」とした世間の空気を吸っていると、しばしば様々な場面で「これ以外に道はない」という、ある種のどん詰まり感を覚えることがある。しかしそんな中で、ぼくは、ももの書庫の本に見られる「わらわら」とした要素、カウンター的な考え方にふれると、密閉され、酸素が薄くなった社会の壁に小さな風穴が開き、少し息が楽になる感じがする。

 言ってみれば、ぼくは書庫の主について書いているうちに、思わず、書庫の「住人」たちにばったり出会ってしまった、彼らの存在に気づかされた、という感覚を覚えた。書庫には虫とホコリとカビの他に、じつは別の「住人」たちがいたのだ。それは、もも自身がはみ出したものを持っていたからこそ、彼が読んだ本にも散見できる魑魅魍魎とした要素であり、それらは書庫の主が世を去った後も、本棚の各所に残り、静かにうごめいている。ぼく自身、自分がホコリだらけの閉め切ったこの場所に嫌でもなく足を運ぶのはなぜなのか、と不思議に感じてきたのだが、自分がしているのは「彼ら」への訪問調査のような役目だったのだなあ、と納得したのだった。

 

※(新型コロナウイルス感染症の流行により、ここ数か月思うように遠方の書庫へ通えないことが重なっているため、しばらくの間「“祖父の書庫”探検記」を小休止とします。状況が改善され次第、連載を再開したいと思います。もうひとつの連載「『無職』の窓から世界を見る」は継続しますので、よろしくお願いします。飯田)

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 「無職」の窓から世界を見る 第3回【後編】
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30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。

プロフィール

飯田朔
塾講師、文筆家。1989年生まれ、東京出身。2012年、早稲田大学文化構想学部の表象・メディア論系を卒業。在学中に一時大学を登校拒否し、フリーペーパー「吉祥寺ダラダラ日記」を制作、中央線沿線のお店で配布。また他学部の文芸評論家の加藤典洋氏のゼミを聴講、批評の勉強をする。同年、映画美学校の「批評家養成ギブス」(第一期)を修了。2017年まで小さな学習塾で講師を続け、2018年から1年間、スペインのサラマンカの語学学校でスペイン語を勉強してきた。
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