2 デコボコを抱えた王様
祖父を知る上の世代の人たちから、ももは政治運動の現場などでスピーチやアジテーションが非常に巧みであったとか、下の世代の人たちの世話をよくしたとか、ある意味で「しっかりした人」だという評判を聞くこともある。また、「博覧強記」ともよく言われ、尋常ではない記憶力と文章を書く上での強烈な腕力を持っていたようだ。祖母によると、祖父は仕事で東京へ行く列車の中で論文を三つ書いてしまったこともあるという。
しかし、そういう「あれができた」「これもできた」という話の一方で、祖父の知人や友人が祖父についてふれた文章の中には、ぼくが見た祖父の一面と重なる指摘を見かけることがある。
例えば生物学者の池田清彦が『がんばらない生き方』(2012年、中経の文庫、初刊は2009年)という著書の一文でいいだももについてふれている。この本を読んで思わず笑ってしまったのは、池田がももについてふれた一文に『頭が「良過ぎる」のも考えもの』というタイトルをつけていたことだった。このタイトルは、ぼくから見た祖父の人となりを端的に言い表した言葉だと思えた。
池田は、ももについて次のように書いている。
飯田(いいだ)桃(もも)という、(…)評論家がいますが、彼などはその「尋常ではない才能」の持ち主の代表格です。(…)
飯田氏はほとんど「記憶」だけでブ厚い本が書けてしまうそうです。
通常、われわれのような物書きは本を1冊書くのに、いろんな参考文献の頁をめくり、事実関係などを確認しますが、飯田氏の場合、そういった手間はほとんどいらないらしいです。しかも、80歳代になっても枕にできるほど大きな本を次々に書いておられるわけですから、ただただ驚愕するほかありません。
『がんばらない生き方』文庫版134~135頁
先に書いたようにぼくの記憶では、ももは机の上に多くの本を置いて執筆していたので、ももが参考文献をどこまで確認しながら書いていたのかは分からないが、池田がふれている祖父の記憶力については同意できる。その上でぼくはこのくだりよりも、その直後の部分で池田が次のように言っていることの方に目がとまった。
もっとも、いわゆる“フツーの人生”を歩むのであれば、そういった「すご過ぎる能力」は不要であり、もっと言えば、極端に特殊な才能があると、普通の人との違いが大き過ぎるため、その人たちでなければわからない疎外感というか、「孤独感」もあるはずです。
同前135頁(太字原文ママ)
この特殊な才能の持ち主ならではの「疎外感」「孤独感」についての言及は、池田がももをそのような才能の持ち主の一例として紹介した後、あくまで一般論として書いている部分なのだが、ぼくにはまさに祖父本人にもあてはまる指摘と感じられた。池田はこの文章で、人の頭の中は「何かが秀でていると何かが劣っているのが普通」なのだと書いているが、こうした捉え方は、ある部分で人並み外れた力を発揮した祖父のような人が別の場面では「子ども」のように振る舞っていたことの「矛盾」を理解する手がかりになる。
また、60年代後半から70年代初めにももと共に共産主義労働者党という政治組織を作り、活動した武藤一羊は、ももの死後関係者らによって出版された書籍『鬼才 いいだもも』の中で初対面での祖父の印象を語っている。武藤は、ももと初めて会ったとき「旦那風」であると感じたと書いており、ももが(おそらく政治運動の現場などで)「仕切らないではいられない」たちであったと書いている。
(…)旦那はいつも仕切るのです。仕切るのがあたりまえ、仕切るように生まれついているので、仕切らないではいられないのです。(…)あまりにも仕切り方が露骨であると、仕切られたくなくなるわけです。
『鬼才 いいだもも』83頁
ぼくは、この「仕切るように生まれついている」という表現が絶妙だと思った。ぼくが見た、祖父の自分勝手な部分も、育ちとか環境といった後天的な要因よりは、何かこの「生まれついている」という感覚に重なるものだったからだ。
また武藤は、ももの「仕切りたがり」は例えば政治家が自派を囲い込むような「みみっちい」行動とはどこか違っていた、とも書き、ももは「旦那」ではなく「王様」だったのだと後から思い至った、と書いている。
ぼくからしてもこの「王様」という言葉は祖父の性質にぴったりだ。なぜなら、ももの自分勝手さは、権力を得たいとか、威張りたいとか、いわば「これから王様になってやる」式の勝手さではなく、どういうわけか、「王様に生まれついてしまった」とでも言うような、この性質は本人も「変えようがないのだろう」、と周囲も理解ができる部分があったからだ。
こうした池田や武藤の文章を読んでみて、ぼくとしては、ああ、家族以外の人からしても、もものアンバランスさが見えていたんだな、と少し感慨深くなった。武藤は先の文章の一節に「何者だったのか」という見出しをつけているが、孫であるぼくにとってもまた、祖父は「あの人は何だったんだろう」と奇妙な余韻を残す人物だった。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。