3 祖父の文体
さて、この祖父が書いた文章はどのようなものだったのか。最初にふれたように、ぼくはこの1、2年、連載のために書庫で見つけた本を読むことと並行して、祖父が書いた本も何冊か読んでみた。祖父の本の政治思想的な部分は難しく、ここで知ったようなことは書けないのだが、ぼくなりに読んで面白いと感じた点がいくつかあった。
ひとつ目は、祖父は文体もまた独特であるということだ。祖父の文章は、色々な分野からの様々な情報を次から次へと繰り出すようなスタイルで書かれている。例えば、祖父の本では日本のある特定の時代を扱うとき、日本史の知識だけでなく、世界各地の歴史や地理、自然など他の領域の知識が次々に持ち出され、読んでいると、まるで百科事典かコンピューターによって書かれたかのような情報量の多さを感じさせられる。また、そうして書かれる祖父の文章は一文が長いことが多々あり、読む側に「いつまでも終わらない」と感じさせる文章でもある。
例えば、90年代にももが書いた『「日本」の原型──鬼界ヶ嶋から外ヶ濱まで』(1994年、平凡社)という本の次の一文を見てもらいたい。この本は、古代平安京と中世鎌倉の出生などを扱った内容で、引用部分は日本列島の文化を西・南と北・東で対比している箇所だが、その内容よりも文の長さとその情報量に注目してほしい。
「森の文化」としての西・南の列島文化がすぐれて照葉樹林(常緑広葉樹林)帯の産物として、ヒマラヤ・雲南・江南に連続する文化背景を有しているのに対比してみて、縄文文化がナラ林帯の産物として基本的に北・東の文化であり、縄文人の竪穴住居・深鉢型土器、木の実・ナッツ採集、サケ・マス漁撈、蕪(かぶ)の農耕等が、「北方系モンゴロイド」の文化複合であることは疑うべくもなく、このような北・東の縄文文化は、古代日本史に挹婁、粛慎、靺鞨、蝦夷等々として登場するカムチャッカ・千島・蝦夷島・シベリア・沿海州地帯を介在して、さらにステップの道、セイブルの道と接続していたにちがいない。
『「日本」の原型』41頁
この長さで一文なのである。ももの文章には、読んでいると、この一文はいつになったら落ち着くのだろう、という感じと、用語が積み重なるうちに話がふくらんでくる、何か「とまらなさ」のような感覚を覚える。これはぼくの雑感でしかないのだが、先ほど池田清彦の文章でふれられていた「記憶」力と関係し、祖父の中では情報のストックが普通の人の何十、何百倍とあるのか、「これを語るなら、それも、あれも出してこないと」と次々に情報が浮かび、文章が長くなってしまうんじゃないか。
また、以下の一文に祖父の個性があらわれている気がして、思わず笑いそうになった。『「日本」の原型』は、次の問いかけから始まる。
いつから日本? いつまで日本? どこから日本? どこまで日本? ──この「日本」の端緒(、、)と終末(、、)の問題意識に立たなければ、今日の「日本史」はリアルな日本史たりえない。
同前8頁(傍点原文ママ)
歴史の本ではよく「いつから?」と起源を問うものを見かけるが、祖父の場合は、「いつまで?」と逆向きの方向にも目が向かい、さらに「どこから?」「どこまで?」と子どものように問いが続いてしまう。
祖父の本を手に取り、こうした文体にふれて思ったのは、彼は同時代の他の論客たちとは良くも悪くも大きく違った性質を持つ書き手だったんじゃないか、ということだ。祖父の文章は、いわば大量の知識を調整なしに読者に提示してしまうスタイルで書かれ、用語や問いが続くうちに話がふくらんでいくかのような「とまらなさ」の感覚がある。
これまでの自分の読書体験でぼくが唯一ももの文体と近いと思えたのは、民俗学者の南方熊楠の文章だった。熊楠の文章も、世界各地の文献や事例が次々に引かれ、目が回るような感じがある。熊楠は変わり者として有名だが、祖父とその文章についても普通の立派な書き手とその著作としてではなく、一人の相当「変わった」人が書いた「独特な創作物」として見直すことに意味があるのではないだろうか。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。