「もうひとつの日本」という視点───島尾敏雄『ヤポネシア考』
祖父の書庫の2階に上がり、棚を見て回っているとき、作家の島尾敏雄の対談集『ヤポネシア考』が目に入り、「あ、これか」と思った。
ぼくには、京都に行くと必ず立ち寄る、一軒のバーがある。写真家の甲斐扶佐義さんがやっている「ヤポネシアン・カフェバー 八文字屋」という店。店の名前に「ヤポネシアン」と書いてあることについて「なんだそりゃ」と思ったまま、それ以上調べることはなかったのだが、書庫で島尾敏雄『ヤポネシア考』を見かけたことで、ようやくその言葉の意味を知ることになった。
『ヤポネシア考』は、島尾が「ヤポネシア」というテーマをもとに、石牟礼道子や大城立裕など九州や沖縄の書き手と行った対談を集めた本だ。出版は九州の葦書房で、当時の九州、沖縄周辺の作家同士で色々な交流があったんだなあ、と初めて知った。
「ヤポネシア」とは、島尾が奄美大島に移住したことをきっかけに考え出した言葉で、大和朝廷を中心とするいわゆる「日本」とは別の、もっとそれ以前の縄文時代における日本列島での暮らしや言語、今でいう沖縄や奄美、東北など日本の主流から外れた地域に残る古い「原日本」的な文化に着目して、日本を捉え直す考え方だ。また、中国など大陸からの影響だけでなく、ポリネシアやミクロネシアの島々との海洋的な文化のつながりを再考することを念頭においた「もうひとつの日本」を指す言葉となっている。
この「ヤポネシア」という捉え方にひとつ大事なものがあると思えるのは、それが島尾自身の抱える日本への「キュークツさ」が出発点になっているということだ。
島尾は自身の半生を語るインタビューの中でこう言う。
それとは別ですけど、ぼくは日本の中に、ある固さが感じられて、それから抜けだしたいというような気がしている。(…)奄美に行ったら、本土でいやだと思っていたそういう固さがないんです。(…)
『ヤポネシア考』217頁
この前後で語られる島尾の若い頃の逸話からは、かれの学校や軍隊への「なじまなさ」が感じられる。島尾は、最初九州帝国大学の経済科に入るが、経済学がまったく頭に入らず、軽いノイローゼのようになり、かろうじて父親に文科への転科を許してもらう。その後大学を繰上げ卒業し、昭和18年、第三乙というほぼ不合格の状態で海軍予備学生になる。海軍予備学生を志願した理由は、体の弱い自分でも「戦闘機に乗れば」「集団の中で命令したりされたりするような戦争をしなくても済むんじゃないか」という考えだったが、それが大きな間違いで、結局特攻ボートに乗る震洋部隊に配属されてしまう。
「ヤポネシア」は、今ある「日本」に上乗せして「日本はさらにこんな側面もあってスゴい」と自画自賛する考えではなく、今ある「日本」に対して「そうじゃない日本もありますよ」と対置してみせる、別の日本の権利主張のような側面、カウンターパート的な側面を持っている。
そろそろカウンターとしての「もうひとつの日本」という考え方を振り返ってもいい時期がきている気がする。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。