多様性の時代に「悪」はどこにいるのか?|『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』「アベンジャーズ」シリーズ『エターナルズ』
正義/悪の喪失とニヒリズム
だが、本連載のここまでの議論からしても、この対応策には限界がある。本連載で論じてきたことを別の角度から見れば、それは要するに現代において「ヒーロー」が不可能になっているのかもしれないということである。
正確に言えば、スッキリ疑いのない正義を体現し、民衆を助けるヒーローは見失われつつあるのだが、さまざまなヒーローの物語は、あの手この手を使ってそれを保存もしくは復活させようとしている。前回論じた『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の結末におけるピーター・パーカーの諦念の表情は、ヒーローが不可能になったこの世界で、皆から忘れ去られながらも自分の中の小さな正義だけを抱えて「お隣のヒーロー」として生きようという、決意というにはあまりに寂しい決意を表していた。
正義が見失われるとすると、同時に悪もまた見失われていることになるだろう。それは前回述べたように、ポストトランプ時代においては右派ポピュリズムと左派ポピュリズムの間の区別が不可能になっているからだ。つまり、排外主義的・差別主義的な運動(悪?)も、それに反対するリベラルな運動(正義?)も、民衆の願望を受け取った「ポピュリズム」という意味では同じものになっているからかもしれない。
これは、言い換えるとニヒリズムの問題である。ニヒリズムは哲学者ニーチェの重要概念だが、ニーチェの場合は神の死んだ近代において価値が相対化され、いかなる道徳的価値もほかよりも優越しているとは言えなくなるような状況である。つまり正義が見失われた状況だ。
本連載の背後で亡霊のように姿が見え隠れしているテレビドラマの「ザ・ボーイズ」シリーズはまさにそのようなニヒリズム状況における「ヒーローもの」だと言えるだろう。「ザ・ボーイズ」のヒーローたちは、もはや正義には仕えない。彼ら・彼女らが仕えるのは、大企業のヴォート・インターナショナルである。この企業はヒーローたちを抱えて世直しをさせつつ、その活躍を映画にして興行収入を得るメディア企業でもある。
この企業に属するヒーローたちの主な仕事は、悪を倒すことと同時に、民衆の人気を獲得することだ。人気を得るためなら事実や真実はどうでもよい。そんなスーパーヒーローたちはトランプ的政治家とほぼ区別がつかなくなる。
そのように、正義も悪もなくなったニヒリズム状況を「ザ・ボーイズ」シリーズはこれでもかとばかりに描き続ける。ニヒリズム状況では、行動の原理は利己主義と党派主義だけだろう。ここで言う党派主義とは、深く一貫した政治的信念による連帯などではなく、その場の利害や情念による結びつきにすぎない。それに加えて、党派を組むことによって友と敵を確定することを目的とした、マッチポンプ的な連帯である。
このようなニヒリズムの状況と、前節で論じた多文化主義との距離はどのようなものだろうか? あらゆる価値を包含するはずの多文化主義の決定的な外部は「多文化主義を否定する者」であると述べた。だが実のところ、ニヒリズムもまた同じ論法を使う。例えば差別的な表現を批判するリベラルに対して、「表現の自由の敵」といった言葉が投げつけられる時にはそれが起きている。そのような言葉を投げつける人たちにとっては、自由な表現に少しでも口を出すリベラルは「価値の多様性」を否定する者たちなのである。
MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。
プロフィール
(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。