現代社会と向き合うためのヒーロー論 第5回

多様性の時代に「悪」はどこにいるのか?|『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』「アベンジャーズ」シリーズ『エターナルズ』

河野真太郎

多文化主義とニヒリスティックな党派主義のあいだで

 ここでは、多文化主義と善悪について述べたのと同じ事が起きている。ナウシカの哲学によればすべては自然である。したがって、墓所を破壊する必要も実はない。だが、すべてが自然であり善も悪もない中で、唯一否定されるべき悪は、すべてが自然であることを否定する者(墓所)だ、というわけだ。

 私はこれは普遍的な論理ではなく、歴史的に限定された論理だと考えている。歴史的限定というのは、新自由主義的な反官僚主義における、計画の否定という感情の構造である。

 またこのナウシカの論理が、ニヒリスティックな党派主義に陥る崖っぷちにあることは、本稿前半の議論で示したつもりだ。ニヒリスティックな党派主義とは、「全ては自然であり、善悪も存在しないなら、あとはもう「自分たち」の正義を宣言し、その価値観に従わない者たちを「やつら=敵」とみなすだけだ」という論理である。それは、リベラルな多文化主義の徹底の先にある反転だ。新自由主義においてそのようなニヒリズムが蔓延することは、私が訳したウェンディ・ブラウン『新自由主義の廃墟で』(人文書院)(2022年)が論じている。

 『エターナルズ』に話を戻すと、セルシの行動はナウシカをなぞっている。彼女の行動もまた、多文化主義的な多様性の肯定と、ニヒリスティックな党派主義の間に危なっかしく立ったものである。つまり、(宇宙の秩序を破壊するかもしれないにもかかわらず)人間を救うことは、セレスティアルズという、全ては自然であるという原則を否定する者(自然と人工を切り分ける意図と計画を持ちこむ者)の否定であるという意味で多文化主義の論理をとっている。だがもう一方でそれは、価値が失われたニヒリズム状況での「人間」という党派・立場の無条件で開き直り的な肯定にも陥りうるのだ。

 実際、『エターナルズ』は人間ではないはずのエターナルズの「多様性」を提示することで、「人間」の範囲を広げるふりをしつつ、じつはディヴィアンツという他者を置くことで、「人間」の境界線を太く引いているようにも見える。作品が提示する多様性にあてはまる範囲においては、その者たちは「人間」である。その外側は「逸脱者」(ディヴィアンツDeviantsの直訳)なのだ。

 これは私たちが現在はまり込んでいる政治状況そのものだと言えまいか。ナウシカやセルシは、好意的に見れば、そのような政治状況におけるニヒリスティックな党派主義の崖っぷちで、多文化主義に踏みとどまろうとする人たちだとも言える。

サノスの豹変

 最後に、以上の視点からサノスの豹変を見直してみよう。サノスはいわば、墓所のような役どころを担っている。意図と計画によって自然に介入し、人間を救おうとするのだから。その観点では、『エンドゲーム』における豹変に見えるものも、豹変とは言えないのかもしれない。現在の宇宙を破壊して、ユートピア的な別の宇宙を始めようという彼の計画は、「墓所」の、地球上の生命を墓所に保存された人類と取り替えようという計画にそっくりである。それは、『インフィニティ・ウォー』での生命半分の虐殺と、自然への意図的・計画的介入であるという点では連続しているのだ。

 だが、ナウシカの哲学が墓所の肯定に危険にも接近していったのとは逆コースで、墓所に似たサノスがナウシカに近づく側面がありはしないか。とりわけ『インフィニティ・ウォー』での、誰にも理解されない真実を胸に確信的に生命の半分を虐殺するサノスの決然とした様子は、墓所の破壊という、にわかには理解のできない恐ろしい暴力を確信をもって行うナウシカを彷彿とさせずにはおかないからだ。そこにはセルシの暴力も列せられるべきだろう。

 現代のヒーローがヒーローたるべき条件を苦しんで探究しているのと同じように、ヴィランもまたヴィランたるためにもがいている。その背景にはリベラル多文化主義的な価値の平準化と、その部分的な結果として生まれるニヒリズムと党派主義的な価値の恣意的決断とのあいだの緊張関係が存在する。そのようなヒーロー物語の苦闘は、私たちが現実世界で巻きこまれている政治的苦闘そのものかもしれない。(つづく)

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現代社会と向き合うためのヒーロー論

MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。

プロフィール

河野真太郎

(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。

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