現代社会と向き合うためのヒーロー論 第5回

多様性の時代に「悪」はどこにいるのか?|『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』「アベンジャーズ」シリーズ『エターナルズ』

河野真太郎

『風の谷のナウシカ』と自然と人工の脱構築

 私はこの結末の構図にある作品を想起した。それは『風の谷のナウシカ』(漫画版)である。

 『風の谷のナウシカ』の漫画版では、映画版からの完全なるどんでん返しが行われる。この作品は現代から二千年後、毒の瘴気を吐く「腐海」が覆う地球を舞台とする。映画版では最終的に、この腐海は千年前の最終戦争によって汚染された地球を浄化するために生じた生態系であり、この作品は大地の自然治癒力への賛歌であった。

 ところが、漫画版ではその先に逆転が待ち受けている。最終的に明らかになる真実は次のようなものである。ナウシカたちが最初に「自然」だと思っていた腐海やそこに住む蟲たちは、実は千年前、滅亡の危機にあった人間の科学者たちが生命科学によって生み出した人工的な生態系であった。それは汚染された地球を浄化するためのクリーナーとして創られたのだ。またさらには、ナウシカたち「人間」も、その時点で環境に適応するよう作りかえられた人造人間だったのである。本来の人間は、その攻撃性をはぎ取られた形で、「卵」になって人間の科学技術の集積地である「墓所」に格納されている。地球が浄化された時にはナウシカたちはその本来の「人間」に取り替えられる計画だったのだ。

 最後にナウシカが取る行動は衝撃的である。人工的に作られた生命(腐海、蟲、そしてナウシカたち)もまた生命なのだ、と宣言して、計画によって生命を操作することを否定し、墓所を完全に破壊するのである。これは直接的には人類の自殺を意味する。ナウシカたちは浄化された空気の中では生きられないように改造されているからだ。それでもなおかつ、ナウシカは人為的な生命への介入を否定し、生命は生命の力で生きるのだと、墓所を破壊するのだ。

 このナウシカの行為と、『エターナルズ』のセルシの行為の類似の本質は何だろうか。まず指摘できるのは、自然に介入する人工物や計画を女性主人公が破壊する、という類似性である。

 ただし、ナウシカとセルシの間にはより深い水準での符合がある。それは、一言で言えば「自然と人工の脱構築」である。先ほどこの二人は人工物や技術を破壊すると述べたが、それは正確ではない。セルシはそこまで明示的に自分の破壊行為を意味づけるわけではないが、エターナルズとディヴィアンツ、そしてセレスティアルズの真実が明らかになる展開は、『風の谷のナウシカ』終盤の、世界の真実の露見にかなり似ている。それはいずれも、「自然だと思っていたものが人工のものであった」という露見なのである。

 ナウシカは、それに対して、人工物である自分たちや腐海の生命が、自分たちの力で生きている、つまりはそれらは自然であると逆転させる。ナウシカが破壊するのは、自然と人工・技術を切り分ける境界線なのである。セルシの破壊も同じ線で見ることができるだろう。セルシの場合は目の前での地球と人類の破壊を止めるという目的があるとはいえ、創造者を殺すことは、自分たちが独立した生命であることの宣言なのである。

 もちろん、ナウシカの哲学に従うならば「墓所」の科学者たちが生み出したもの(人工物)もまた自然だと言えるのだから、破壊する必要はないのかもしれない。では、なぜ破壊するのか?

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現代社会と向き合うためのヒーロー論

MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。

プロフィール

河野真太郎

(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。

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