火の玉のように燃えた広島 毎年語る祖母に「また始まった」
宇城さんと私は2020年4月から2年間、同じ広島支局で勤務していた。といっても私は役職のない一記者で、宇城さんは管理職として全体の指揮を執る支局長の立場だ。宇城さんにとっては3回目の広島配属で、社内でも「原爆報道といえばこの人」と仰がれていた。
出会った当時、私は入社4年目で原爆報道を担当していた。希望していた取材に集中できる毎日は充実していて、仕事への慣れから自信もつき始めたころだった。何かと私は突っ走りがちだったと思う。感情的になって上司に意見し、視野の狭い取材に陥るたび、宇城さんは冷静かつおだやかにいさめてくれた。その豊富な知識と経験に多くのことを学ばせてもらったが、特に印象に残っているのは「被爆体験の継承と被爆者援護の問題、そして核兵器の廃絶。原爆報道の柱はこの3つ」と教えてくれたことだ。明確に指針を示し、導いてくれた人だった。
宇城さんは1971年、広島市内で生まれた。父の勝眞さんと祖母キフミさんも含めて、親類では10人程度が被爆している。母方の祖父母も被爆者で、母の壽賀子さんは戦後生まれの「被爆二世」だ。つまり、宇城さんは「被爆者」と「被爆二世」のあいだに生まれた、「被爆二世」ということになる。宇城さんが自身のルーツを考える時、原爆を避けて通ることはできない。
キフミさんと勝眞さんが被爆した場所は、爆心地から北に約4.1キロ。熱線と爆風により焼き尽くされたとされる半径2キロ圏内(※1)からは離れているが、ここも被爆者健康手帳の交付が認められる地域に指定されている。宇城さんが生前、キフミさんに聞き取った内容によると、2人の被爆体験は次の通りだ。
キフミさんは当時22歳で、勝眞さんは生後9カ月。夫は2度目の召集を受けて不在だった。旧広島市内に暮らしていたが、爆撃へのおそれから2人は市外の祇園町青原に疎開した。現在の「憩いの森」にも残るため池のそばの小屋で暮らし始めたのは、1945年8月1日のことだった。
6日の朝は快晴だった。勝眞さんを縁側で日向ぼっこさせていると、B29が飛んでくる音が聞こえた。青空に黒く映った機影を見て、近所の人と「カラスみたいじゃねえ」と話していたところ、真っ白い光と轟音に襲われた。勝眞さんは裏手の竹やぶまで吹き飛ばされたが、けがもなく無事だった。
しばらくすると広島市の方角から黒い雲が立ち込め、真っ黒い雨も降ってきた。雨粒は、里芋の葉を黒いビー玉のように転がっていった。キフミさんは勝眞さんの手を取り、小さな指先で水滴をつぶして遊んだという。市内ではあちこちで炎が上がり、山の上から見た街はキフミさん曰く「火の玉のようじゃった」。そして、大けがを負った人が逃れてきては次々と力尽き、近所の人たちと火葬して夜通しお経をあげた。
疎開元の自宅は、爆心地から約3キロの場所にあった。勝眞さんをおぶって後日見に行くと、家はぺしゃんこにつぶれていた。
祖母と父の体験を振り返って、宇城さんは言う。「疎開するのが遅れていたら、俺はここにはおらん。竹やぶに吹き飛ばされた父親の打ちどころも悪くなかった。いろんな物語が重なって自分がいて、自分にも息子がいる」
キフミさんの10歳年下の弟は建物疎開の作業中に被爆し、大やけどを負って亡くなった。彼女は毎年8月6日になると、「あの時は暑かってねえ。うちの弟がねえ……」と、仏壇の前で語り出したという。同居していた宇城さんも幼いころからその話を耳にしてはいたが、「また始まった」と感じるくらいで、強い関心を抱くことはなかった。東京の大学に進学するまでの18年間を被爆地で過ごし、平和教育も受けてきた。だが、肉親の被爆体験と真剣に向き合おうと思ったのは、記者になってからだった。
※1……広島市・長崎市 原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』岩波書店、1979年、25頁
広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!
プロフィール
ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。