「俺は、ヒロシマの一体何を知ってるんだ」
もともと本が好きだった。書籍の編集者になろうと思っていたが、「まず書くことを学ぶのもいいかな」と考え、毎日新聞社に入社した。1994年4月のことだ。栃木県の宇都宮支局に配属され、翌年迎えた「戦後50年」の節目には、反戦を願う人の声で地方版を埋め尽くす特集記事も担当した。だが、「原爆報道」は意識していなかったという。
転機となったのは記者3年目の夏休み。友人に誘われたツアーで、ポーランドを訪れた。そこで、第二次世界大戦中のナチスドイツ政権による大量虐殺を取材する機会に恵まれたのだ。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡にあるポーランド国立オシフィエンチム・ブジェジンカ博物館の前館長やホロコーストの生存者、ワルシャワ蜂起でナチスと闘った元パルチザンなどから、次々に話を聞かせてもらった。
印象に残っているシーンがある。現地で通訳と案内をしてくれたワルシャワ大学の教官が、ある懇親の場で激怒したのだ。それは、日本人の参加者が「死んでいった人たちの思い」に言及したことに対してだった。
「そんなことがわかるわけがない! 私たちが伝えていかないといけないのは事実だ。ここで何があったのか、という事実だけだ」
宇城さんは、見学したアウシュヴィッツの博物館も「事実」そのものだったと振り返る。「働けば自由になる」と書かれたアーチ型の門、収容された人々の山と積まれた毛髪、彼らが使った服や食器がそのまま残されていた。「そこに解釈や脚色は何もない、事実そのもの」。その積み重ねに圧倒された。<ストーリー>ではなく、<事実>にこだわりたい、と宇城さんは思い至る。そして、こうも感じた。
「俺は、ヒロシマの一体何を知ってるんだ。宇城家の事実を語れないじゃないか」
ポーランドで出身地を尋ねられても、「広島出身の被爆二世」ということ以上、話すことができなかった。「こんなんじゃ俺はあかんのじゃないか、と思ってな。しかも、自分は新聞記者。真面目に、ヒロシマというものに向き合わないとまずいんじゃないか、と思い始めた」
広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!
プロフィール
ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。