被爆者の子どもに生まれて ルポ 被爆二世 第2回

逃げちゃいけないと思いながらも……

小山 美砂(こやま みさ)

照れくささを押し殺し、肉親の被爆体験を聞いた29歳の夏

 そして、その機会は2000年夏に訪れる。大阪社会部では、「終戦55年」の紙面制作に向けて、平和報道に携わる若手記者を地方支局から募っていた。大津支局に配属されていた宇城さんは手をあげる。「祖母と父が被爆者なので、この話をちゃんと聞いて記事にしたい」。希望が通り、平和取材班に組み込まれた。

 キフミさんも、快く聞き取りに協力してくれた。宇城さんは振り返る。「お喋りな人やし被爆体験を隠してるわけでもないから、『重たい口を開いた』っていう感じではない」。実家で被爆者健康手帳を開きながら、当日やその後の光景、行動を聞き取った。同年8月6日の朝には原爆が投下された瞬間にいた場所、武田山へ一緒に向かった。そこで午前8時15分を迎え、目を閉じて手を合わせるキフミさんの姿をカメラに写した。記事は翌日付の全国版朝刊に、『祖母から「被爆」初めて聞いた 火の玉、黒い雨…弟は「ねえちゃん」と叫び逝き』との見出しで掲載された。

父・勝眞さんの被爆者健康手帳=2023年10月28日、広島市安佐南区で山田尚弘撮影

 署名入りのその記事に、執筆当時29歳だった宇城さんは次のように書きつづっている。

《20世紀最後の夏。照れくささを押し殺して聞いた祖母の被爆体験に、私は命のつながりを実感した。もし、祖母が物置小屋に疎開するのが遅れていたら、祖母も父も犠牲になり、今の私はなかった》

 ともに現場を歩き、家族の被爆体験と向き合ったからこその実感がこもった文章だろう。しかし、宇城さんには苦い思い出がある。

「最初、『今の私はなかった‟だろう”』って書いてなあ。社会部長に、『なんで言い切れないんだお前は。取材が甘いし覚悟が足りん』って、1時間くらい説教されたよ。その時はどっちでもええやんと思ったんやけど、あとから考えたらやっぱり正しかったと思う。俺が原稿についてうるさく言うのは、この夏の経験があるから」

宇城昇さん=2023年10月28日、広島市安佐南区で山田尚弘撮影

 改めて肉親に話を聞いてよかった、と思った。そして、「聞いたからこその責任というか、覚悟や使命……そういうものを感じた」という。

 以降、宇城さんは毎年の平和報道に携わるようになる。記憶の継承の務めを果たしたい、との思いを強くする一方で、「被爆二世」への遺伝的影響に関する取材にも関心を持った。その入口となったのは、日米共同で原爆放射線の健康影響を調べる放射線影響研究所(放影研)が2000年からはじめた調査だ。子どもが患った生活習慣病と親の被爆の関連について調べるものだった。

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 第1回
被爆者の子どもに生まれて ルポ 被爆二世

広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!

関連書籍

「黒い雨」訴訟

プロフィール

小山 美砂(こやま みさ)

ジャーナリスト

1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。

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逃げちゃいけないと思いながらも……