何としても、正社員に
母子家庭となり、自身も働くこととなった尚美さんは、朝から夕方まで預かってくれる保育園に次男を預けようと思っていたが、実母の強い希望で、次男も幼稚園に通うこととなった。
「兄弟に差をつけるのは良くないと、母は譲りませんでした。実家で世話になっているんだから、幼稚園代ぐらい払えるでしょうと言われて。幼稚園は帰りが早いんです。なので、18時まで預かってもらうための延長代金含めて、月謝は月4万円にもなりました」
この頃は、派遣をメインに働いた。時給は1300円、10時から16時までの勤務時間は、幼い子どもを持つ身にはちょうどよかった。食事の用意も含めて家事はすべて、実母が担ってくれた。
「すべてが母におんぶに抱っこでした。果たして、これでよかったのか。今、原因不明の病気で苦しんでいる母のことを思うと、あの時、公営住宅に入っていれば……と」
次男が小学生になったのを機に、尚美さんは「いずれ、正社員にならないといけない」と、児童扶養手当受給者のための「職業訓練」を利用して、パソコンを一から学び直した。そして、マイクロソフト社の「マイクロソフト オフィス スペシャリスト」という資格を取った。2010年、43歳の時だった。
2002年、国は「母子及び寡婦福祉法」等を改正、児童扶養手当の支給額を削減すると同時に、就業支援策を打ち出した。尚美さんが利用した制度がこれだ。この時点で国は明確に、「児童扶養手当中心の支援(福祉)」から、「就業・自立に向けた総合的な支援(就労)」へと、母子家庭支援政策を転換した。その意味で、2002年の改正(改悪)は、エポックメイキングとなった。
当時、児童扶養手当受給者だった私は、手当の受給期間が5年を超える場合には、手当を一部減額する制度が導入された、児童扶養手当の改悪に、身も凍る思いだったことを思い出す。まさに児童扶養手当こそ、シングルマザーにとってのささやかな生命線だ。それを削減するという、この国のシングルマザー施策に、当事者として憤りを感じたのも事実だ。
一方、華々しく打ち上げた「就労支援」の数々は、私に使えるものは一つもなく、ただいくつものアドバルーンを揚げて、「やってますよ」というポーズを作っただけに見えた。たとえば看護師の資格を取るために看護学校に通う場合、月10万円が支給されるのだが、一体、これを利用できるシングルマザーがどれだけいるのだろう。月10万円を支給されても、働かないと食べていけない(ちなみにこの10万円だが、民主党政権下では12万円にアップされたが、再び自民党政権になると、10万円に戻された)。看護師になりたくても、この額では学校に通うなんて不可能だ。生活に余裕があり、親のバックアップが期待できる、尚美さんのようなシングルマザーしか、使えない代物だった。
資格を得たことで、尚美さんは司法書士事務所に正社員として入社した。給料は月15万、健康保険と厚生年金はなく、ボーナスは年に1回。
「残業がないということで、選んだ職場でした。18時には上がれるので。当時、国保は3人分で3万近く払っていました。国民年金は払えず、滞納していました。給料は安いのですが、働きやすい職場なので、骨を埋めてもいいと思っていました」
尚美さんがフルタイムで働き始めてまもなく、小3になった長男がいじめに遭い、それをきっかけに、発達障害が判明した。
「広汎性発達障害という、以前は自閉症と言っていた障害です。ADHD、すなわち多動もありました。こだわりが強く、協調性もない。小さい頃から、汗だくの育児だったんです。興味があるものを見つけると突進して行く。他の子のおもちゃをいきなり取ったり、何遍も迷子になったりました」
わが子が発達障害という事実を、尚美さんはなかなか受け止められなかった。
「主治医には、『IQ自体は高いが、多動が心配だ』と言われました。この子の将来を悲観し、そういう子を産んでしまった私を責め、毎晩、泣いてました。当時は、そういう考えしかできなかったんですね。必死に療育施設などを調べて、いろんなところに行きました。病院や心理士さんのペアレントトレーニングも月1回は受けてと、とにかく必死でした」
長男のため必死に奔走していたこの時期、次男は実母に任せきりで、ほとんど手をかけていない。そこが、今も悔やまれる。
「母子家庭」という言葉に、どんなイメージを持つだろうか。シングルマザーが子育てを終えたあとのことにまで思いを致す読者は、必ずしも多くないのではないか。本連載では、シングルマザーを経験した女性たちがたどった様々な道程を、ノンフィクションライターの黒川祥子が紹介する。彼女たちの姿から見えてくる、この国の姿とは。