5月10日 ハンスト2日目 自民党本部前
9時に自民党前にタクシーをつけると、仁士郎はまだ来ていなかった。なので私を出迎えるのは麹町署の私服警官たちだった。車から降りると、まるで私が首謀者かのように警官たちに囲まれた。そしてこの警官たちがずっと私についてくる。コンビニでコーヒーを買っていてもなぜか外でずっと待っている。その健気な姿は忠犬ハチ公を思わせた。
すでに駆けつけていた支持者を、警官が自民党本部の対岸の少し離れたところに誘導し、「元山さんとは話がついています。今日はこちらに座るのでここで待ってください」と言っていたが、仁士郎と話がついているなんて私は聞いていなかった。
仁士郎が到着する。彼は自民党本部前で立ち止まることすら許されず、先程の支持者のいる場所へと警察に誘導された。仁士郎に聞くと、場所についての話など決まっていないという。私は欺瞞を感じ、私服警官にその点について説明を求めた。
「話がついていないものを話がついていると嘘を言って、支持者を誘導したわけですか?」。支持者の方もそれに気づいて抗議を始めた。警官はしどろもどろになってしまった。「そういうすぐにバレる嘘をついて国家権力を行使することが警察への不信につながると思いますよ。余計な揉め事を増やさないでください。元山さんは話せばわかる人ですよ」。私が抗議すると警官は困った顔で「誤解があったとしたら申し訳なかった」と小さな声で謝罪した。
その横を自民党の佐藤正久外交部会長が大勢の取り巻きに囲まれながら通り過ぎて行った。淡々と座っている仁士郎のことには見向きもしなかった。
私服警官に「正直なところ、彼のどういう行動を警戒しているのですか?」と尋ねると、「自民党本部に、と、突入するですとか…」と警官は口籠もりながら言った。「お腹をすかせた人間がそんなことしないでしょう」と返すと警官も苦笑いだった。
昨日とは一転しての晴天。日差しを避けられる場所に仁士郎は陣取った。まわりには支持者たちが集まる。普段から国会前で抗議をしている人たちだそうで、和気藹々としていた。
そんな中にデニー知事が突然現れた。午後の官邸への建議書提出に際して現れると思っていたので誰もが意表をつかれた。10分ほどの間、デニー知事は談笑していた。「若い世代に沖縄と日本の近現代史についての教育が充分ではないのではないか。これまでの50年の歩みを確認して多様な議論をしていくことで、47都道府県最下位とされる県民所得もリカバリーできる」と朗らかに語っていた。
「沖縄の問題は沖縄だけの問題ではない。岸田総理ともそういう話をしたい。ウクライナでの戦争の影響で、永田町では今、力には力という論調が走っている。コザ騒動の翌日の景色とウクライナの戦火の光景は似ていた。戦争はすべてをモノトーンにする。つまり人々から喜びや楽しみの色を奪い去ってしまう。戦争は誰にとっても何のプラスも生まない。(一部要約)」
「その最前線に沖縄が立たされようとしていると私は思っているのです」と仁士郎が言う。知事は頷く。「そうそう、そういうことです。それをいろんな形でみんなによく考えてよと、繰り返し言わないといけないですし。こういう行動も若いからできると思いますので、でもほんと無理しないでね」
デニー知事の軽やかな言葉と足取りに、こちらの気持ちも軽やかになる。そこに居た人々が皆、明るくなる。そういう力のある知事だと再確認できた貴重な瞬間だった。しかしその軽さが数日後に問題発言を引き起こすのだが…。
自民党本部に掲げられた「新しい時代を皆さんとともに。」というスローガンが空虚だった。陽が傾くと、場所を移しながらハンガーストライキは続いた。
仁士郎はさまざまな人と話し込んだ。沖縄選出の国会議員たちや福島みずほさんなども訪れた。沖縄出身の学生の姿もあった。海外のメディアも取材に訪れた。医師によるチェックも受けたが、「医師としてはハンガーストライキという行為そのものを推奨することはできないんです」と微妙な心境を語ってくれた。
三線奏者の豊岡マッシーさんが訪れ、ヒヤミカチ節が自民党本部前に響いた。シュールというかなんというか、切ない光景だった。
仁士郎に論戦のようなものを仕掛けに来る人もいた。途端に緊張感が走り、身構えながら撮影した。
「辺野古はあなたの土地ですか?」「あなたがやっていることは無駄ですね」
「人が話している時に足を組むな」「旅費を出してくれたら辺野古を見に行く」
撮影しながらこちらが怒りに震えるような言葉もあった。相手が空腹状態であることには目が向かず、手前勝手な議論をふっかける人々には脱力した。
しかしどんな頓珍漢な問いにも、県民投票の結果も知らない質問にも、仁士郎は丁寧に返した。「ぜひプレスリリースに添えた参考文献を読んでもらいたいです」。これにはぐうの音も出なかった。参考文献が記載されていたのには、こういう意味もあったわけだと膝を打った。
しつこく質問を繰り返した50歳の男性に、「あなたにとって復帰50年とはなんですか?」と取材した。その男性だけではなく、この後数日、仁士郎に論戦を仕掛けに来た人々に同じ質問をしたが、皆、揃いも揃って、
「沖縄がアメリカから帰ってきたのだから嬉しいことだ」と答えた。
しかしそれは「復帰」ではなく「返還」についての話だ。彼らには共通して、「本土」側の目線しかないという特徴があった。「復帰」という沖縄からの目線については、その概念すらも理解できないようだった。
これには圧倒的な断絶を感じた。断絶とはとても寂しいものだ。しかし、帰っていく彼らの後ろ姿もまたどこか寂しそうだった。個人を断罪することなく、この断絶を生んでいる構造そのものに目を向けなくてはと改めて気づかされた。
その日は夜がふけても多くの人が彼のまわりを訪れていた。
22時過ぎにその日の行動は終わった。私は、沖縄北部から駆けつけた映像作家の友人とその日は一足先に赤坂へ帰った。
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