「県民投票の結果が無視されるこの状況での『復帰』を果たして祝うことができるのか?」
シンプルな言葉が突き刺さる。彼はこの言葉を全国のメディアに向けてしっかりと明確に刻みつけた。彼の行動がなければ、復帰50年にこのようなオピニオンは無かったかのように、なんとなく曖昧なまま過ぎて行ったかもしれない。
彼は毅然と言う。
「復帰をしない方が良かったのではないか。米軍の犯罪などの被害について、沖縄の人の声を日本政府がアメリカに届けないのではないか? 復帰したことによって、沖縄とアメリカの間にいる日本が民意をスポンジのように吸い込んで、葬ってしまうのではないか?」
このハンストは政府への抗議活動であると同時に、無関心な日本社会への「問い」であると感じた。
記者会見が終わると記者たちは慌ただしく足早に去っていく。仁士郎はひとりアウトドアチェアに座り、静かにノートパソコンに向かう。フリーランスのメディアや支持者が断続的に彼の元を訪れる。
前述したように、国家へのプロテストにしては、あまりにも静かで穏やかに見える。しかしそれ自体が彼の才能というか、彼の持つ人格の凄みであると、前回のハンスト現場で気づいていた。彼はいつも凪いだ海のようだ。対立を煽ることもなく、声を荒げることもなく、淡々と堂々と意思を示しながら、そこに在り続ける。
対立を押し付けられ続けた島々が生み出した、沸点を超えた後の静けさ。
叫び疲れた沖縄が彼を生んだのかもしれない。その切実さは重い。
「対立」よりも「内包」や「受容」に価値を置く新世代の在り方を、彼の存在は体現しているように思えた。
「復帰50年とは何か。端的に表現するとどんな言葉ですか?」
私の質問に彼は「裏切り」と答えた。
彼は「復帰」翌年の1973年にバイクで国会議事堂正門の鉄柵に突っ込んで、事故死したある沖縄の青年について話してくれた。
「先輩たちに話を聞いて、今を生きている自分にできることを考えた。ハンガーストライキをせざるを得ない」
とても静かで丁寧な彼の佇まいの根底に在る熱量は、50年前この場所の目と鼻の先の国会へ突撃死した沖縄の青年と重なって見える。
私は撮り続けることで彼のその熱量に応える覚悟をした。
午後になると雨が降ってきて、国会に旗めいていた日の丸も降ろされた。彼は地下鉄の入り口に雨宿りしながらPCを開き、署名の拡散など、これからについて考えを巡らせていた。
冷たい雨が降り続いた。前日に沖縄から来た私には寒さが骨身に染みた。片手で傘をさす仁士郎だったが、膝は濡れてしまっていた。それでも淡々と彼はそこに在り続けた。そんな彼の横には静かに寄り添うように立つ人々がいた。
その中に、上間陽子さんの「海をあげる」を持って立ち続ける人の姿があった。
「この本をちょうど読み終えた時に、元山さんが再びハンストを始めるというニュースがあり、慌てて駆けつけた」とその人は言う。上間さんから「海を渡された」人だった。今回のハンスト中、この本がきっかけで仁士郎を知ったという方に数名出会った。文芸作品から彼のプロテストに辿り着いた人たちがいること、沖縄の現状に眼を向ける人々がいることに新鮮な気づきや驚きがあった。しかしその反面、われわれのようないわゆる「報道」関係者がそのきっかけ作りをできていないのではないか、本来の役割を果たせていないのではないか、という反省も感じさせられた。
雨は続き、霞ヶ関に陽が落ちる。私も寒さで震える。官庁街、仕事を終えた人々が仁士郎の横を足早に通り過ぎる。彼のことを気に止める人はほとんどいないように見えた。
その日の官房長官会見で、ある記者が仁士郎のハンストについて松野博一官房長官に質問をしたが、「日米同盟の抑止力の維持と、普天間飛行場の危険性の除去を考えれば、辺野古移設が唯一の解決策」といつも通りの無味乾燥な回答だった。
この日は11時すぎに官邸前を後にした。
「(この後、宿泊施設に戻り)人目の無いところでハンストを続ける方が、自分との闘いのようでつらいのではないか?」私の質問に彼はこう返した。
「人目が有るかどうかはもともとあまり気にしていないので、つらいはつらいけど、一人になっても変わりません」。若き賢者には愚問のようだった。
最後はふたりきりだった。私も彼もずぶ濡れで1日目は終わった。
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