岸田首相が去り、要人たちの車両が遠くに消えると、警官たちは気が抜けたように規制を解除した。その様は呆気に取られるほど無感情で機械的だった。
報道陣に囲まれながら、仁士郎は力無く歩いていた。すでに150時間の飢餓状態。そして航空機での移動に、警察からの規制。彼の体力はもうほとんど奪われているようだった。これからどうするのか。私は彼に聞けなかった。私自身ももう考える力を失いつつあった。
小さな公園の一角に座り、彼は医師の診断を受けた。医師の女性が着ているのが高江のTシャツなのが懐かしく思えた。
「医師として、これ以上、続けさせるわけにはいかないです」
151時間。元山仁士郎の2度目のハンガーストライキはここで幕を閉じた。
安堵感や怒りや、虚しさ、さまざまな感情が去来し、私は放心状態になってしまった。それでも仁士郎はそこに座って、メディアからの記者会見に応え続けた。地元の高校生なども駆けつけ、皆、彼の言葉に真摯に耳を澄ましていた。静かに穏やかに、冷静に、彼はゆっくりと言葉を選びながら「対話」を続けていた。
空虚で曖昧な復帰50年。無数の論点が複雑に絡み合うなか、そこに雪崩れ込むように彼のハンストを追ってきた。
復帰式典では岸田首相は「辺野古」のへの字にも触れなかったが、バイデン大統領の会談では沖縄の「基地負担軽減」のために辺野古の建設を進めることの合意が発表された。日本政府の言う「基地負担軽減」とはなんだろうか。
50年前の復帰時、日本における米軍専用施設の沖縄の負担割合は59%だったが、現在は70%まで上昇している。割合はむしろ増えてしまっている。日本の面積の0.6%の沖縄県に70%の米軍基地が存在する。人口比にすると99%の人が3割を分け合うなか、1%の人々だけが7割を背負わされている計算になる。基地の被害や犯罪に加え、この状態で健全な経済状態が成立するようには到底思えない
これを構造的差別だと指摘する声もある。仁士郎も会見で「沖縄に対するアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)のようなものが必要では?」と語った。
復帰50年。ドラマ「ちむどんどん」の影響で、都内で沖縄食材を扱うある店舗の売り上げは3倍になったそうだ。しかしこの消費者のなかに仁士郎のハンストについて知る人はどれだけいるだろうか。
ハンスト中のある夜、友人たちとの会話の中で仁士郎は言った。
「50年後の復帰100年はハンストしたくないすね。80歳かあ…」
「おれもその時、90歳で仁さんのこと追いかけたくないよ…」
そんな冗談で笑い合ったが、しかし、50年前の若者たちもそんな気持ちだったはずだ…。そう考えると拭いきれない悲しみが込み上げてきた。
鮮やかな光と途方もない闇が混在するこの沖縄。
復帰50年は、これからの新しい50年の始まりでもある。
復帰100年の頃の沖縄が今よりも、沖縄の人々が望む姿であるように。
そのために動く必要があるのは、1%の沖縄県民ではない、99%のわれわれ「本土」人だ。そしてそれには、まずこの沖縄と「本土」の溝の深さを知ることだ。現実と向き合うことだ。「搾取」でも「美化」でもない新たな関係はそこから始まる。
沖縄の問題は間違いなく、日本が押し付けている問題である。
このもどかしさや無力感、痛みを、見て見ぬふりする時代はもう終わりにしなければならない。元山仁士郎の呼びかけた署名は間もなく3万筆に達する。
写真・文・取材 猪股東吾
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