2 大変なことになった、その後を見据える
いま10年が経ち、もう一度この『安心ひきこもりライフ』を読み直して、ぼくの目にとまるのは、例えば次のような箇所だ。
勝山は『安心ひきこもりライフ』のⅡ章で中年のひきこもりに向け、ひきこもりが持ちがちな、ある恐怖に言及する。それは、「仕事をしなければいけない。さもなくば、餓死する、ホームレスになる」という漠然とした恐怖についてである。
このような「○○しないと大変なことになる」という恐怖は、ぼくには、ひきこもり当事者だけでなく、その家族やひきこもりの支援者までも持ちがちなものであると感じられるが、これに対して勝山は、その恐怖は実体がないものだと否定し、ひきこもりの読者に向け、むしろひきこもりはすでに「大変なこと」になった後の状態なのだと訴える。
(…)あなたは「大変なこと」をすでに乗り越えているのです。普通の人はここまで堕ちることができません。(…)手遅れは手遅れでしかない。(…)ひきこもり中年男子であるなら、もう間に合わないのです。あなたは働かないと大変なことになった、あとの状態なのです。
『安心ひきこもりライフ』88頁
ぼくは、このひきこもり当事者は「大変なことになった、あとの状態」なのだという表現に大事な要素があると思った。なぜなら、いま世の中で力を持っている競争主義的な考え方とは、いわば「○○しないと大変なことになる」というその「大変なことになる」という地点を一種の脅しの根拠にして、多くの人を競争に駆り立てる考え方と思え、一方ひきこもりはすでに「大変なこと」を乗り越えている、という捉え方は、その脅しの機能を骨抜きにすると思えるからだ。
勝山がこの本で提示する、ひきこもりの新しい生き方「安心ひきこもりライフ」は、ひきこもりを経験した人たちに向け、社会のレールから転げ落ちた後に無理に(就労などをして)元のレールに戻ろうとするのではなく、社会の外側に落ちてもやっていける道がある、いわば「大変なこと」の「その後」を見据えて考えていこう、という発想を示している。ここには、その社会で生き残れなくても、ちゃんと自分なりの別の生き方はできるはずだという確信があるように見える。
勝山は、「働かないのに死なないひきこもりは、格差社会を支配している『働かないと死ぬしかない』という恐怖をやわらげるでしょう」と言っているが、この地点から競争主義=サヴァイヴの考え方を振り返ると、「○○しないと大変なことになる」式の、サヴァイヴ的な発想は、じつは、ある種のハッタリでしかないというか、根拠のない恐怖に支えられた思考という側面が見えてくるんじゃないか。
ぼくが勝山の本から受け取ったのは、じつは競争の世界から見たら、とっくに「死んでいる」、ドロップアウトしているとみなされる、ひきこもりのような人たちが自分なりに生きようとすることの中に、なぜか競争主義を足元から揺るがす要素があるんじゃないか、ということだった。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。