3 過剰なまでに「いきいき」しているクマたち
さて、なぜ人ではなく、キャラクターが社会問題と闘う姿が描かれるのだろう。
このことを考えるにあたって、最初にぼくの頭にのぼってきたのは、このふたつの映画でプーとパディントンが妙に「いきいき」と描かれていることだ。
「いきいき」とは、プーたちが活動的であって、ただの「かわいい」とか「笑える」だけのキャラクターではなく、主体性を持ったひとつの存在として描かれているように思えた、ということだ。
『大人になった僕』は、一見すると、主人公ロビンの再度の「成長物語」を描いているかのような内容だが、実際には、物語の中で終始プーが主体的に動き回っていて、ロビンの悩みである労働問題をすべてプーが裏で解決しているように見える。
ぼくには、この映画が、大人になったロビンの「成長物語」という当たり障りのない物語の形式を隠れ蓑にしながら、その実、ロビンではなく、かれのかつての友人だったクマのプーの方に焦点を当てる、やや奇妙なバランス感覚を持つ作品だと思えた。
例えば、序盤でプーとロビンの久しぶりの再会が描かれるとき、主人公のロビンがプーの住む森を訪ね、プーと再会するといった始まり方にはなっておらず、プーの方がわざわざロンドンへやってきて二人が再会する様子が描かれる。つまり、ロビンの仕事の悩みの解決のそもそものきっかけは、かれ自身でなく、プーの行動によるものなのだ。後半も、プーと仲間たちがもう一度ロンドンへ向かう様子が派手なアクション調で描かれ、それが作中のロビンの労働問題を解決する直接の要因になる。
最終的にプーはロビンの家族(妻と娘)と一緒にバカンスを過ごすことになるのだけど、一連の物語は、かつて少年ロビンと別れざるを得なかったクマのプーが、もう一度ロビンのそばに居場所を築くまでの冒険を描いた内容にさえ見える。
一方、『パディントン』はどうか。
そもそも『パディントン』では、クマのパディントンが主役であり、物語はペルーからやってきたこの若いクマの視点でずっと描かれる。
パディントンは、ペルーにいながらイギリス風の礼儀作法を身につけたクマで、ロンドンに渡ってから誰にでも礼儀正しく振る舞い、また、必ず何か相手の「いいところ」を見つけて付き合うので、多くの人と友達になる。パディントンと出会った人たちもまた、お互いの「いいところ」に気がつき、人々の関係性がよくなっていく。こうしてクマと人間が築いた関係性が、差別などの社会問題を乗り越えるカギになるのである。
ぼくが気になったのは、こういったクマたちの主体性の描かれ方に、他の多くのキャラクター映画とは何か違う要素があると思えたことだ。
例えば、『マッドマックス』シリーズで知られる映画監督ジョージ・ミラーは『ベイブ』(1995、ミラーは製作・脚本を担当)やアカデミー賞を受賞した『ハッピー フィート』(2006、監督)など、子ども向けのキャラクター映画を作っており、一見『大人になった僕』や『パディントン』はこれらの映画と同じキャラクター描写を行っているように見える。『ベイブ』では牧羊犬に憧れる豚のベイブの活躍が実写と特殊効果で描かれ、『ハッピー フィート』では極寒の地で暮らすペンギンたちの姿がミュージカル調のCGアニメで描かれた。ミラーが携わったこれらふたつの映画も、動物の視点から、動物たちの活躍を描く点が今回のふたつのクマの映画と共通している。けれども、プーとパディントンが「いきいき」しているのは、このようなただキャラクターが作中で活躍することとは違うことを意味する。
クマたちと他のキャラクターたちの違いは何なのだろう。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。