5 大塚英志の「移行対象」論
じゃ、その場合のクマがあらわす「むかしのわたし」って何なのだろう。また、クマたちが闘う相手は何なのか。
実は、ぼくは以前から人間とキャラクターの二者関係を描く物語には個人的に惹かれるものがあったのだが、それに関連してよく頭に上ってきたのが、評論家の大塚英志の本を読んで知った「移行対象」という概念だった。
これは、精神分析家ウィニコットが考え出した概念で、ぼくは、大塚による『人身御供論』(2002年、角川文庫、初刊は1994年)を読み、キャラクターと人間の関係を描く物語に関して「移行対象」という考え方があることを知った。
「移行対象」とは、例えば子どもが小さな頃にいつも手に抱えている人形だとか毛布を指す。ぼくには、この考え方が『大人になった僕』と『パディントン』の物語を考える際の手がかりになると思える。大塚は「<癒し>としてのクマ 移行対象論」という文章の中で、「移行対象」を次のように説明する。
<移行対象>とは子供が母親の庇護(ひご)下から離れ、独り立ちしてゆくプロセスで見出す事物で、例えば『スヌーピーとチャーリー・ブラウン』のコミックに登場する少年ライナスが手にしている毛布が、そのしばしば引きあいに出される例である。幼児が古びたぬいぐるみや薄よごれた毛布に執着するという事例は子供たちを観察していれば、しばしば気づくことだし、私たち自身も幼児期の記憶をたどればなんらかの<移行対象>を持っていたはずである。
『人身御供論』240~241頁
大雑把に言うと、「移行対象」とは、成長途中のある時期に子どもにくっついている一種の心理的な「同伴者」の役割を果たすもののことだ。
大塚はこの心理学の分野で考え出された概念をもとに、漫画などのサブカルチャー作品で、「移行対象」にあたるキャラクターが殺害されるモチーフが描かれていることを取り上げ、そうした作品では、成長物語の中で主人公に同行する「移行対象」が殺されることで、主人公だけが外部の現実に到達する(成長する)過程が描かれている、と読み解いた。大塚によれば、ウィニコットは、プーをモデルにこの概念を考え出したそうだ。
(この本を読んだとき、そんな考え方があったのか、と驚き、色々な漫画や映画にあてはめられそうだと思ったが、その後ウィニコットの原著を読んでみたらあまりにも難しく、ギブアップしてしまった)
ぼくがプーとパディントンの姿に、キャラクター映画として新しさを感じたのは、この「移行対象」という考え方に関連した部分だったのだ。
ふたつの映画は、大塚が注目した「移行対象」の成長物語の構図を踏まえつつ、それを新しい形で読み替えた作品になっている。
先に言うと、これらの映画では「移行対象」を殺害する「成長物語」への違和感が提起されている。「キャラクターを殺害して(キャラクターと別離して)人が成長する」物語から、「キャラクターと共に生きる」あり方への方向転換が見られる。
プーとパディントンは、どちらも人々にとってのかつての「移行対象」なのであり、クマたちがいま闘おうとしているのは、これまで当然視されてきた「成長物語」のあり方なんじゃないか。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。