6 「成長」への違和感
どういうことか。
まず『大人になった僕』の方から考えてみたい。
『大人になった僕』では、冒頭に出てくる「少年ロビンがプーと別れてその後成長していく」というかつての「成長物語」への見直しがはかられている。
冒頭の少年ロビンがプーと別れる回想場面は、大塚英志が注目した従来の「移行対象」の物語にあてはまる。プーは殺されはしないが、ロビンが成長するために「別離」をしなければならなかった相手だ。その意味で、プーは単にロビンが少年時代に別れただけでなく、ロビンの成長のために「切り捨てられた」存在と捉えることができる。
この映画で重要なのは、そうやってプーと別れてまで成長しようとした結果がどうだったのか、という疑問が提示されていることだ。大人になったロビンを待っていたのは、(リストラなどで)他者を切り捨てて生きていく価値観が横行する世界だった。
映画の終わりにロビンは冒頭の少年時代とは違う選択をする。ロビンは、他者を切り捨ててでも会社の業績を上げようとする価値観を捨て、家族やプーたち、会社でリストラされそうになっていた同僚たちと共に生きる道を選び取るのだ。
ここには、「移行対象」の物語への一種の反省のような感覚がある。
次に『パディントン』はどうか。
『パディントン』ではいわゆる個人の「成長物語」は描かれないが、その代わりに『1』『2』それぞれに登場する悪役たちが追う、「何者かになる」ことへのアンチテーゼが似た形で描かれる。
『1』の悪役である、地理学者の女性ミリセントはパディントンを剥製にして博物館に展示しようと考え、それによって地理学者協会から栄誉ある学者として認められようとしている人物だ。
『2』の悪役ブキャナンはかつて有名だったが今は落ち目の俳優、という人物だ。かれもまた、パディントンに濡れ衣を着せ、自分が隠された財宝を手にして舞台俳優として再び名声を得ようとしている。これらの悪役は、いわば他者を踏みにじって自分だけ「何者かになる」ことを目指す人物である。
とくに、『1』のミリセントが働く博物館は、ある意味でかつての「大英帝国」的なイギリスの繁栄を象徴する場所になっていることが印象に残る。
「大英帝国」的とは、作中のイギリスの地理学者たちが未開の地への探検で出会った動物たちを殺し、剥製にして陳列している空間ということだ。これは、ぼくには、イギリスという国そのものが自らの「成長」のために、各地で出会った人々(動物たち)を「移行対象」として殺してきた、国家大の「成長」を象徴する場所になっていると思えた。
パディントンとその友人となる人間たちは、そうした自らが「何者かになる」ことのために他者を犠牲にしようとする発想、大英帝国の「成長」に対して、異なる他者と共に生きる道を模索する、「多様なイギリス」を背負う人たちのように見える。
ここまでを整理すると、『大人になった僕』と『パディントン』は、どちらの映画も、そうしたこれまで人が広い意味での「成長」を志向したときに切り捨ててきたものへのまなざしが込められている作品なんじゃないか。
『大人になった僕』では労働問題が、『パディントン』ではEUの難民危機や差別の問題が提起されているが、どちらの映画でも、そうした社会問題の根底には、人が「成長」や「何者か」といった「ひとつの到達点」に執着することで、何か大事なものを切り捨ててきてしまった、そういう構図が共有されていると思う。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。