4 クマはわたしなんだ
何が『大人になった僕』と『パディントン』を他の多くのキャラクター映画と分けるかというと、ひとつには、これらのクマの映画はキャラクター映画ではあるけれど、単にキャラクターの活躍を描くのではなく、人間とキャラクターの関係性に焦点を当てた内容になっている点だ。
ふたつの映画では、人間とクマを、「二人で一人」のような一対の関係性から描いている。クマは人にとってある種の「分身」のような存在なのだ。
『大人になった僕』では、プーはただのクマのぬいぐるみではなくて、どこかロビンと存在感がダブるキャラクターとして描かれる。
例えば、映画の序盤で、プーと大人のロビンが再会する場面では、プーが公園のベンチに腰かけているところに、それに気づかずロビンがベンチの反対側に座り、二人が鏡合わせのようになる様子が映される。
ロビンはプーのような架空のキャラクターとは少年時代にすっかり縁を切ったつもりでいて、実際には会社での残業やリストラへの違和感があり、その割り切れない感情がベンチの反対側に座る「分身」のプーとしてまさに現れている感じがする。また、プーは、「なにもしない」ことに価値を見出していた少年時代のロビンの一面を具現化した存在でもある。
さて、一方のパディントンもまた、どこか人間たちの「分身」めいたクマである。
先にパディントンをペルーからロンドンへきた移民、と書いたが、パディントンのキャラクターとしての面白さは、移民ではあるけれど、ただ外からやってきた「よそ者」ではない、という点だ。実はパディントンは、作中ロンドンで出会うイギリス人たちに「かつて移民であったわたし」を思い起こさせる要素を持っている。
次の場面を見てほしい。
パディントンはイギリスへ行く前、ペルーでクマのルーシーおばさん(声:イメルダ・スタウントン)に育てられた。大地震で家を失った後、おばさんはパディントンを港まで連れていき、イギリスへ向かう貨物船に忍び込ませると、最後にこう話す。
ルーシー:(パディントンに)ロンドンで新しい家をお探し。
パディントン:(不安そうに)知り合いもいない。クマは嫌われるかも…。
ルーシー:昔探検家の国(イギリス)で戦争があった時、大勢の子供たちが旅に出されたの。首に札をかけて駅に立ち、よその家族に引き取ってもらったそうよ。あの国はよそ者に優しいはず…。
映画『パディントン』、字幕翻訳:岸田恵子
(一部句読点と補足を加えた)
ここで重要なのは、若いクマのパディントンがロンドンへ移民することが、かつてイギリスの子どもたちが戦争でべつの土地へ行かなければならなかったことと重ねられていることだ。
その後、パディントンはかつてのイギリスの子どもたちと同じように、「どうぞこのクマの面倒を」とおばさんが書いた札を首に下げ、ロンドンへたどり着き、札を下げたクマの姿に「何か」を感じ取ったブラウン一家の夫人(サリー・ホーキンス)に拾われる。
パディントンはその後も、元移民で今はロンドン市民になっている人たちと出会い、友人になる。こうした場面からは、パディントンはただのよそからきた移民なのではなくて、どこかイギリスの人々にかつて自分もまた「よそ者」だったことがあるという、過去の自分について思い出させる、「内なる移民」なのだと言える。
ふたつの映画は物語的には、一見テーマが違う作品に思えるが、どちらも「むかしのわたし」を思わせるクマが人々を訪ねてくる映画、と整理することができるんじゃないか。
これらの映画でぼくがクマたちを「いきいき」していると感じたのは、人が忘れ去っていた過去の自分がなぜかいま「クマ」の姿になって戻ってくる、クマたちが再び元気に動き回っている、そんな裏側の構図から何か伝わってくるものがあったからだ。
『大人になった僕』と『パディントン』では、クマたちを人と切り離された「かわいい」もしくは「笑える」だけのマスコットとしてではなく、観客が、このクマたちはわたしなんだ、と感じられるような存在として描いている。クマたちの側にも半分「わたし」としての主体性が込められているのだ。
なぜ人ではなくクマが社会問題と闘うのかというと、これらの映画では、労働問題にせよ、差別の問題にせよ、いまの世界の問題が、忘れ去られた「むかしのわたし」のような視点からでないと乗り越えられないものがある、と捉えられているからじゃないか、とぼくは思う。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。