WHO I AM パラリンピアンたちの肖像 第5回

不死鳥の如く

たった5メートルから果たした再起
木村元彦

コーチを襲った不治の病

 しかし、その指導を仰ぎ始めてから半年後、ロンドン大会直前のキャンプ地クイーンズランドに向かうのを数日後に控え、試練がまた襲ってきた。エリーはAISの寮で朝食を摂り、いつものようにトレーニングに向かった。スティーブは姿を見せなかった。少し不審に思いながらもひとりで水に入り、黙々とメニューをこなした。午前中のセッションが終わった頃、オーストラリアの競泳代表チームの会長から電話がかかって来た。めったに来ない重鎮からのコールは、スティーブが練習に行こうとして自宅で倒れたことを告げるものだった。まだ原因は分からないが、かなり重篤な状態だという。やがて検査の結果、スティーブの脳に腫瘍が見つかった。あんなに元気だったコーチが、ロンドンまで命が持つかどうかも分からないということだった。手術の後、スティーブは奥さんの押す車椅子に乗ってプールサイドに現れた。頭部にざっくりと残った痛々しい手術痕を見たエリーは、いたたまれない気持ちになった。最も信頼していたコーチが不治の病気によって突然、大会直前にリタイアを余儀なくされたのだ。精神も肉体も最悪の状態に追い込まれてしまった。しかし、一人ぼっちになったとは考えなかった。

「自分の仕事に誇りを持ち、選手のために働けることを心から喜んでいたスティーブは、もうロンドンに行けない。それならば、スティーブのためにもがんばろうと思ったの」

 

ナタリーとの最終勝負

 肩の痛みは取れないままであったが、ここで壊れてもいい、と覚悟はかたまった。やがて、ロンドンパラリンピック大会を迎えた。スティーブの症状については、選手を試合に集中させるため、水泳連盟が情報をクローズドにしていたので知ることはできなかった。しかし、そのことでエリーはプールデッキを歩くたびにコーチのことを思い出していた。

 「彼が見ていてくれるといいな、といつも思っていた」

 まったく自信は無かったが、必死で泳ぐと背泳ぎで優勝した。競技日程の早い段階で表彰台の真ん中に立って国歌を聞いたことで精神的に楽になった。肩の痛みは相変わらず続いていたが、続いて団体リレーでも金メダルを取った。

(C)Paralympic Documentary Series WHO I AM

 大会9日目、いよいよ最後は自由形であった。エリーは会場で永遠の目標であったナタリー・デュトワと再会を果たした。圧倒的な強さを誇り「絶対女王」との異名をとったナタリーにとってのラストレースである。選手控え室には様々な選手がいて、試合前の集中の仕方はそれぞれに千差万別であった。うずくまって祈りを捧げる者、ヘッドフォンで音楽を聴く者、ストレッチをひたすら行う者…。そんな中でエリーとナタリーは、レースの前に会話を交わすという数少ないタイプの選手であった。

 互いにオーストラリアで、南アフリカで何をしているのか。足を失ってしまった経緯から日常生活に至るまで、語り合っていた。ケガをしても絶望をせずにパラリンピックだけでなくオリンピックにも出場したナタリーは、障がい者アスリートの能力がどれだけ高度であるかを世界に発信したいのだと言った。その意味では自分たちの代表でもある。エリーは心からナタリーを尊敬していた。やがてレースの時間が来た。スタッフが呼びに来てプールへと向かう。

 「これが私とナタリーの最後のレースかと思うと、動揺して歩きながら泣いてしまいました。それでゴーグルをつけ忘れてしまったのです」

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WHO I AM パラリンピアンたちの肖像

内戦で足を失った選手、宗教上の制約で女性が活躍できない国に生まれたアスリート……。パラリンピアンには、時に五輪選手以上の背景やドラマがある。共通するのは、五輪の商業主義や障害者スポーツに在りがちなお涙頂戴を超えた、アスリートとしての矜持だ。彼らの強烈な個性に迫ったWOWOWパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」。番組では描き切れなかった舞台裏に、ノンフィクション執筆陣が迫る。

関連書籍

橋を架ける者たち 在日サッカー選手の群像

プロフィール

木村元彦
1962年愛知県生まれ。中央大学文学部卒業。ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト。東欧やアジアの民族問題を中心に取材、執筆活動を続ける。著書に『橋を架ける者たち』『終わらぬ民族浄化』(集英社新書)『オシムの言葉』(2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞作品)、『争うは本意ならねど』(集英社インターナショナル、2012年度日本サッカー本大賞)等。新刊は『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)。
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